2008/02/17

KYを許さない日本社会

経営コンサルタント鈴木貴博氏のコラムの中で、非常に興味深い指摘があった。


「空気読めない」の略語で一時期の流行語にもなった「KY」についてである。


場の雰囲気を壊してしまうような発言や振る舞いをすることが、いわゆるKYにあたるが、同氏はそもそもKYといって他人の言動を抑圧するようなことの背景にある次の2つの点から、KYブームに疑問を呈している。


①まずもって、KYを糾弾することがはびこる状況というのは、言論統制下のような抑圧された社会とも呼べるというのが同氏の主張だ。確かに独裁国家と呼ばれている社会では、言論の自由はなく、社会全体としてその国の方向性の空気を読むことがよしとされてきた。そう言われてみれば、日本社会も自発的統制国家とも言えなくないと僕も思う。


そして、②社会を構成する国民が、自分自身で物事を考えることなくなっていること。近年のインターネットの普及により、何か事が起きると人々は、まずネットに集まる情報を参照するようになった。自分で考えることなく、ネットに溢れる情報のなかで、主流の考え方をそのまま自身の考えとする傾向があるようだ。


同氏の上記2つの点に加え、KYブームの背景にあるものとして、間違いを恐れる日本人の特性というのも挙げることができると僕は思う。これまでの偏差値重視、学歴偏重型教育のなかでは、勉学ができることが最も優先されてきた。そこには常に模範回答があった。答えがないということはまずなかった。そんな環境下で育ってきた日本人は、何かにつけて、まずは答えを追い求める。そしてその答え以外のことを自分が言ったり、行なったりするとことを極端に避ける。しかしながら、社会に出てみれば、答えがないことのほうが多い。そんなときに世間の大多数の意見に身を委ね、いわゆる模範回答的なところから、大きく逸脱しないように空気を読むほうが楽だ。それでもって、突飛な意見にはKYとしてレッテルを貼り、みんなでバッシングしていたほうが居心地がいいだろう。


日本は、出る杭は打たれる型の閉鎖的社会だと言われる。一方で欧米諸国、たとえば米国などでは、発言の自由ならびに多様性が認められ、自分自身の意見をしっかりと持って、たとえそれが世の中の主流の意見と異なっていても、個々の主張を重んじる。前回の大統領選の際に、LAを旅行したことがあったが、そのときには、バスのなかでさえ、一般国民が熱く政治について話し合っていた。日本での選挙の盛り上がり方とは明らかに開きがある。

KYに寛容である社会こそ、真の民主主義を実現できるのではないか。

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